昭和五十六年十月十七日 朝の御理解
御理解 第二十二節 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳 を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおか げは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
天地の親神様が人間氏子の上に平等におかげを授けて下さってある。その平等のおかげの中には、限りない、いうなら人間の幸福、幸せに生きていけれるおかげが充満しておる。それをお互い信心の心で受け止めるという、信心の心で受け止めるという事が、所謂、和賀心である。お互い有り難くない事を有り難いと言うたり、いや有り難い事は有り難い、これはもう本当は、口にも出せぬ程の有難さというようなものがね、まあ真に有り難いという事でございましょうが。
私は何時も思うんですけど、昨日はあのようにまあ盛大な教祖大祭を奉仕する事が出来ました。終わりましてから先生方、先生方が昨日は大変多かったから共励殿でいっぱいでした。それでこれは、私は何処の教会へまいりましてもそう思うんです。けれども教会長先生が先生方に大変ご苦労をかける訳ですから、その御挨拶があって、そして御直会をどうぞという事になるけれど、私は挨拶をした事がないです。どけん言うちよいか分からんとですよ。しらごつならどけんでん言われますよね。ほうりゃ先生方のおかげでどうのこうのと言う、そんなふうにこっちがいっちょん思うとらんもんじゃから、もう総代さん方がずらっともう並んでどうぞと言う姿勢、構えでどうぞという寸前に、私まいりました。それで私を先頭にあそこで挨拶をしたらよかろうと思うけれども、どうもお待たせ致しました、どうぞと言うだけなんです。心にもない事はやっぱ言えないのですよね。
かと言うて、昨日の御大祭の後の私のお話を聞いて下さった様にです、兎に角この和賀心というのは、有り難いという心は、本当に自分の都合の良い事、まあ昨日の御大祭でいうなら、ああいうまあ有り難い御大祭を奉仕させて頂いたが、それに奉仕して下さった先生方に対する有難さというようなものはない。私が有り難いというのは、只もう神様のお働きそのものに対して感謝をしておるだけであって、そこんところに何というでしょうか、アンバランスな感じがするんですけれども。あそこで何かこう、先生方のおかげで、おかげで今日このような有り難いお祭りが仕えられましたと言よったら、何か有り難いのが抜けて行くような感じがする。
ね、私は昨日は全然思うてもいなかった事が、昨日はお話をさせて頂いた事を、お話をしながら気付いたんですけれども。私の子供の時分の話をさせて頂いてね、痛い思いをさせられたそういう時に頭に閃いた。もう一つ位くらせられても(叩かれても)、言わば、ナンマンダブ、ナンマンダブと言いよると、痛かつはようなると喧嘩どもしちゃならんぞと、爺が教えておったその事が、教えという事ではないけれども、そういうその言うておった事が頭に閃いた。叩き返そうかと思うたけれども、ナマンダブ、ナマンダブと言うたら、不思議にどっからか、有り難い心が湧いてきたと。もうこりゃありありと残っておる事なんです。私の心に有り難いと。そして何処からの有り難いというものであるのやら、その、涙がこぼれる程あったかというのが今でも分かりませんけれどもです、私は昨日そのお話しながら、ははあ和賀心とはこういう事なんだと。ね、はあもう本当に、貴方がたのおかげでおかげ頂いて有り難いというのじゃなくて、反対に叩かれた、叩かれた時に、いうならば有り難い。痛い思いをした時に、どっから湧いて来るか分らん有り難い。そういう、なら稽古がです、初めから有り難いのじゃないけれども、ナマンダブ、ナマンダブと言いよると、痛かつがようなる、というその、その事を行ずる事だと。
ね、なら、皆さんの場合でもそうでしょう。苦しい時に金光様、金光様と親先生、親先生とこう言うておる中にです、痛い痒いがあっても有り難いというようなものが湧いて来る。そういう稽古。天地の親神様が平等におかげを下さるそのおかげを受け止める心、それが金光教で言う和賀心。ならその和賀心というのは、私は、ならまあそんなに小さくしてですね、昨日小さい時分の話をいくらも致しましたがね、所謂宗教によらなければ生まれて来ない雰囲気、家庭の中に、いうならそれを信心の情操というふうに昨日話したんですけれど、その情操の中に育っているものが理屈じゃない。
けれども今から考えてみると、あれがいうなら子供の時からそういう心がある。その心をいよいよ様々な難儀に直面するというか、思うようにならない時に、それが磨かれて段々、本当の和賀心にならせて頂いて来たんだというような事を思うのですけれどね。
だから結局、私はその普通でいうならば有り難くない事、それこそまあ赤面弁慶になって喧嘩でもせんならん、相手取ってせんならんような時に、むしろそんな事ではなくて有り難いという心が湧いて来るいうならば稽古というのがね、神様の言わば、合楽で言われる十全の信心がそこにあるとこう思うです。だから十全なおかげという事になって来るんです。
ね、ですから、ままよとは死んでもままよの事ぞとこう言っておられるね。それはいうならば、叩かれても有り難いという前提になるものなんです。ね、そんな心の状態が開かれるだろうかと、教祖はそれを何というですかね、此の方の道は喜びに喜んで開けた道じゃから、喜びじゃ苦労させん。喜んで開けた道じゃからとは仰っておられんもん。喜びに喜んで開けた道と仰っておられるね。普通、自分の都合の良い時が喜びなら、都合の悪い時でも喜びと言う。喜びに喜んで開けた道じゃから、だからそういう喜びを求めていくのでございますから。なら私はそういう意味で、恵まれておった事は、家庭状況そういうまあ信心の情操などといったようなふうにまあ私の家庭の者やら、親戚の者が思とった筈もないのですけれども、何とはなしにそういう家庭におかげを頂いとって、それこそ喧嘩でん何んでん負けて来ちゃでけんちいうごたるふうに教える位な親もある位でしょうが。泣かされちばっかりいてから、一遍だん泣かせち帰ってこんのち言うごたる母親もあるでしょうが。それに私の方は反対でしたもん。いっちょんだんくらせられたっちゃ喧嘩するなち。ナマンダブ、ナマンダブち言いよると、痛かつはようなるち。
ね、だから結局は、なら合楽の信心はそういう所から先ず稽古しなければならんのじゃないでしょうかね。そん為には、その前提になる所のままよという心。ままよ、右左はもうあなたにお任せするという死んでもままよという心。ね、普通でいうならば腹の立つその事に対してでもお礼がいえれる、そういう心を和賀心だとね。そういう一つのまあ十全なおかげが頂けれる心の状態というものがですね、稽古させて頂けれるそのいよいよの時に頂く心がままよという心。信心の稽古を様々さしてもらって何かいよいよ、ぎりぎりの時にです、そのままよの心が出るようなところを通り抜けて始めて、いうなら神様が平等に下さってあるおかげをですね、受け漏らす事のない、いうならおかげを頂き止める事が出来るというふうに思います。
昨日、私は皆さんに思い掛けないお話を私自身も聞いて頂いたですから、その思い掛けないお話の中からね、新たな、私は、和賀心というものがこのようにして育つんだなあ、又育てなければならないもんだなあ、そして本当な和賀心とはこれだなあというふうなものを感じながら、昨日はお話をさしてもらいました事でございましたがね。どうぞおかげを頂きますように、おかげを頂いた時には有り難いではなくて、ね、それこそ右と願って左の時に有り難い心の頂けれるような状態こそ、喜びに喜ぶ心ではなかろうか。喜びに喜んで開けた道じゃから、なら教祖もやっぱりそのようなところを辿っておられる。そこから開けて来るおかげを本当のおかげ、まあいうならば十全のおかげという事になるのじゃないでしょうかね。 どうぞ。